「自由とは?」
「自由」という言葉は至る所で重要な意味を持ちます。
言論の自由、自由主義、自由な子育て、自由な生き方などなど。コロナ禍の生活では多くの「不自由」も感じていますね。
でもなんとなくでしか「自由」という概念を捉えられてないのではないでしょうか?
「自由とは何にも縛られないことである」と言えるかもしれませんが、「〇〇でない」という否定の形では十分に定義できたとは言えません。
政治的にも、個人の生き方でも重要な概念である「自由」について哲学対話で考えてみました。
哲学対話の手順についてはこちらの記事をご覧ください。
対話の流れ
「欲求」があり、「自由」がある
いつも通り事例から上げていきました。
「高校から大学に進学して一人暮らしを始めた時に自由を感じる」
確かに高校の校則や実家暮らしでの親の干渉から逃れることは「自由」を感じます。
そこで感じる「自由」はいわば欲求の解放です。
大学で一人暮らしを始めれば、
「今まで校則で縛られていた、髪を染めたいという欲求」
「門限を気にせず遊び回りたいという欲求」
などの欲求を叶えることができます。
反対に、髪を染めたいと思ったこともないし、門限を破りたいとも思ったことのない人は一人暮らしを始めても「自由」を感じることはないでしょう。
まず欲求がなければそもそも「自由」を感じることはないようです。
同様に、「不自由」とは欲求を叶えられないことを言います。
外に出たいけど自粛しなければならないという「不自由」は今私たちが最も身近に感じている不自由かもしれません。
「欲求を叶えるという選択が可能である」
しかし、「欲求」は実際に叶えられる必要はありません。
一人暮らしを始めた大学生は、実際に朝帰りをする前、一人暮らしを始めたその瞬間から「自由」を感じるはずです。
この事例から、「欲求が叶う」ことが「自由」というわけではなく、「欲求を叶えるという選択をすることができる権利を持っている」ことが「自由」だとわかります。
そして、「自由を奪う」というのは、個々人が持っている選択可能性を奪うということになります。
「自由」と「身勝手」
ここで類似概念の「身勝手」との違いを考えてみます。
どちらも自らの欲求に従った選択をしてそうです。
しかし、「身勝手」はかなりネガティブなニュアンスですよね。
「身勝手」の本質は「ありのまま生きた結果他人に害を及ぼす」ではないでしょうか。
そう考えると、「自由」は人に害を与えないという限定付きの自由だと考えることができます。害を与えた時点でその「自由」は「身勝手」になります。
まとめ
結論としては「自由とは欲求に基づいた主体的な選択可能性」となりました。
この哲学対話を行うまでは「自由」に欲求が不可欠であるとは全く思いませんでした。
確かに自分の体験を振り返ってみると「自由」を感じた時には、そこに欲求が存在していたと気づくことができます。
この欲求の存在に気づけたことは大きな進歩だと思います。
「他者が害を被る」と「自由」ではなく「身勝手」になるというのも大きな発見でした。よく自由を武器に何でもかんでもやりたいようにやる人がいますが、それを「身勝手」だと認識できるとスッキリします。
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